<止まった刻 検証・大川小事故>第1部 葛藤(2)大津波を予見「山さ行け」

津波は河口から約49キロ遡上(そじょう)した。河口から約3.7キロの大川小には高さ約8.7メートルの津波が押し寄せ、校舎全体をのみ込んだ=宮城県石巻市釜谷

 東日本大震災の津波で全校児童108人中、70人が死亡、4人が行方不明となり、児童を保護していた教職員10人が亡くなった宮城県石巻市大川小。戦後最悪の学校管理下の事故を巡る仙台高裁判決が今春にも言い渡される。あの時、大川小で何があったのか-
。7年近くたつ今、当時の子どもたちや関係者が重い口を開き始めた。第1部は当事者の証言などから、学校にいた教職員11人中、唯一助かった当時教務主任の男性教諭(56)の「3.11」を追う。(大川小事故取材班)

◎教務主任の3.11

 石巻市大川小の男性教務主任(56)は出張を控え、1階更衣室で着替えをしていた。3月11日の最高気温は5.9度。2日前に降った雪はほぼ消えていた。
 午後2時46分、突然の横揺れが襲う。同市北上町の震度は6弱。長く巨大な揺れは約3分20秒間続いた。教務主任は職員室に急ぎ、ジャケットを羽織り、内ポケットに私物の携帯電話を入れた。
 「机の下にもぐれ。ずっと机を押さえていろ」。校内放送は停電で使えず、1階の1、2年教室に声を掛けた。3年以上のクラスがある2階へ急ぐ。大川小は全校児童108人。1学年1クラスの小規模校だ。
 児童を校庭に避難させた後、校舎やトイレを見回り、2階通路を渡って体育館に向かった。鉄の扉が開かず、体当たりした。

 校舎内の確認を終え、校庭に出た。午後3時ごろ、教務主任は「どうしますか。山へ逃げますか」と男性教頭らに尋ねた。「この揺れでは駄目だ」。こんな趣旨の答えが返ってきたという。
 「どこに逃げるか?」「山の方に逃げた方がいいのか?」。当時4年の武山詩織さん(16)=高校2年=は同時刻、教務主任と教頭が校庭で真剣な表情で話し合う様子を見て「ただ事じゃない」と思った。
 6年の女子児童は震災直後の取材に「(教務主任の)先生が『山さ行け。山さ行け』と叫んでいた」と証言。「他の先生は『いったん落ち着いて』といった感じだった」と答えている。
 当時の校長柏葉照幸氏は娘の卒業式のため、午後から不在だった。校長に代わり教頭がリーダー、ナンバー2が教務主任だった。
 校庭からの避難に備え、教務主任は、はだしで逃げてきた子や薄着のままの子のために校舎と校庭を何度か行き来した。
 午後3時15~20分ごろ、消防車がサイレンを鳴らし、学校前を通過した。「津波が来る」と聞こえた。教務主任は「津波が来ますよ。危なくても山へ逃げますか」と再び教頭に尋ねたが、返事はなかったという。
 大川小は河口から約3.7キロ離れている。立地する釜谷地区に津波が襲来した記録はない。学校は当時、30年以内の発生確率99%とされた宮城県沖地震の津波避難場所に指定されていた。
 地元住民の多くは「釜谷に津波は来ない」と信じ込んでいた。津波を目撃して逃げた釜谷の元住民は「仙台であれば国分町に津波が来たようなもの」と話す。

 石巻市の資料によると、釜谷地区の住民496人中、193人が死亡・行方不明となった。犠牲者の割合は38.9%で、大川地区全体(16.8%)の倍以上となっている。
 「山に上がらせてくれ」「ここまで来るはずないから三角地帯(北上川の堤防道路)に行こう」。教頭と区長が校庭で言い争う様子を児童が目撃している。
 津波の襲来を誰よりも早く予見していた教務主任の「山へ逃げよう」という提案は聞き入れられず、先生と子どもたちは川岸に向かって歩き始めることになる。


2018年01月13日土曜日


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