<止まった刻 検証・大川小事故>第1部 葛藤(4)メモを廃棄 真相解明の壁

教務主任が通された和室(右)と翌朝向かった林道を指すつる子さん(左)、市教委開示文書(上)のコラージュ

 東日本大震災の津波で全校児童108人中、70人が死亡、4人が行方不明となり、児童を保護していた教職員10人が亡くなった宮城県石巻市大川小。戦後最悪の学校管理下の事故を巡る仙台高裁判決が今春にも言い渡される。あの時、大川小で何があったのか-。7年近くたつ今、当時の子どもたちや関係者が重い口を開き始めた。第1部は当事者の証言などから、学校にいた教職員11人中、唯一助かった当時教務主任の男性教諭(56)の「3.11」を追う。(大川小事故取材班)

◎教務主任の3.11

 石巻市大川小の男性教務主任(56)と3年の男子児童は裏山を越え、千葉自動車整備工場の千葉正彦社長(63)宅で一夜を明かした。教務主任が余震の度に和室の石油ストーブを消す姿が目撃されている。
 翌3月12日朝、林道に向かう教務主任に気付き、千葉さんの妻つる子さん(73)が後を追った。山に向かって呼び掛ける姿が見えた。
 間もなく当時5年の只野哲也さん(18)=高校3年=らが下山してきた。津波にのまれた後、市職員らと裏山でたき火をして寒さをしのいでいた。
 只野さんと同級生の男子児童は骨折などの大けがを負い、青あざだらけだった。「先生なのに助かってしまって」。うなだれる教務主任を、只野さんは「先生が悪いわけじゃないですよ」と慰めた。
 日中、山あいの入釜谷生活センターに移動し、釜谷峠で一夜を明かした今野ひとみさん(47)と会った。6年の長男大輔君=当時(12)=が亡くなったことをまだ知らない。
 ひとみさんが「学校、どうなんですか」と教務主任に尋ねると「何が何だか」と要領を得ない。パニックに近い状態に、ひとみさんは次の質問をのみ込んだ。
 当時の校長柏葉照幸氏の携帯に15日午前、教務主任から事故の第一報となるメールが届いた。校長は翌16日朝、市教委を訪れ、事故の概要を報告した。
 その際に市教委が作成したとされる記録文書には「屋根を越えて津波」「引き渡し中に津波」とある。フリージャーナリストの加藤順子氏、池上正樹氏が震災1年後に情報公開請求で入手し、遺族が問題視していたものだ。
 遺族は説明会で「津波を見たのはだれか」「避難していなかったのではないか」「保護者は『引き渡し』という言葉を知らない。先生の言葉ではないか」と市教委にただした。
 校長が初めて大川小を訪れたのは震災6日後の17日。15日のメールを基に翌朝、市教委に報告したとみるのが自然だが、校長は後に「避難所とか市河北総合支所で側聞した」と真偽を曖昧にした。
 2011年6月4日の第2回遺族説明会で、市教委は津波襲来時の様子をこう報告している。「津波はすごい勢いで子どもたちをのみ込んだり、水圧で飛ばしたりした。後ろの方で手をつないでいた低学年の子どもたちも津波にのまれた。学校前は波と波がぶつかるように渦を巻いていた」
 児童は上級生を先頭に校庭を出た。校舎の見回りを終えた教務主任は「列の最後尾に付いた」と証言している。
 目撃者は誰か―。当時、現場にいて助かった学校関係者は教務主任と5年生2人、3年生1人、1年生1人の計5人。市教委は、教務主任や生存児童に聞き取った重要証言のメモを廃棄し、校長も教務主任のメールを消した。
 7年近くたつ今も、遺族がわが子の最期に迫れないでいる理由がここにある。只野さんの父英昭さん(46)は津波被害を「事故」、市教委の事後対応を「事件」と呼ぶ。


2018年01月15日月曜日


先頭に戻る