<止まった刻 検証・大川小事故>第4部 緊迫(1)「避難」叫び 広報車が通過

大川小前を通過する自動車のテールランプの光跡。石巻市の広報車は避難を呼び掛けながら三角地帯を目指した=石巻市釜谷 (写真は一般社団法人東北地域づくり協会提供)

 東日本大震災による津波で、石巻市大川小は児童74人と教職員10人が犠牲となった。学校から約3.7キロ離れた沿岸部を襲った津波の目撃情報は、校庭で待機する教職員らに伝わり、情勢は一挙に緊迫する。第4部は当時の児童や住民らの証言を基に、3月11日午後3時25分ごろから津波襲来までの状況を再現、検証する。(大川小事故取材班)

◎15:25~津波襲来

 高さ15~20メートルの松林(松原)を越える白い波しぶきが見えた。「間違いなく来る」。石巻市河北総合支所の広報車1号車を運転していた山田英一さん(62)は、後に大川小をのみ込む巨大津波を目撃した。
 場所は海岸から約2.4キロ、大川小からは約1.3キロ離れた県道。時刻は未確定だが、午後3時25分ごろとみられる。津波が迫る。山田さんは身の危険を感じ、急いでUターンした。
 「松原を津波が抜けてきたのですぐに避難してください」。助手席の菅原秀幸さん=当時(51)=が、車に備えられた拡声器で避難を呼び掛け始めた。
 「緊急、緊急、津波の第1波が襲来」。午後3時26分、石巻地区消防本部の消防無線が北上出張所発の情報を伝えた。消防無線は1号車も搭載していた。
 大川小がある釜谷地区の女性(71)は自宅を片付けていた時、県道を猛スピードで走る広報車を窓越しに見掛けた。「すごいスピード。飛ばしていくなあと思った」と振り返る。
 女性は広報車が呼び掛けた内容を聞き取れなかったが、同じ釜谷の住民は「尋常ではない言い方だった」と記憶する。
 長面(ながつら)方面に向かった広報車2号車は、釜谷霊園近くで1号車と擦れ違った。「津波が来ているからそっちへ行くな」。1号車の山田さんが伝えた。
 2号車の武山泰徳さん(60)が海側に顔を向けると、松林を越える波しぶきが見えた。慌ててUターンし、1号車の後を追った。
 大川小前の県道からは、せり出した山に隠れて松林を越える津波は見えない。釜谷地区に入った武山さんは、県道沿いに立つ住民を見つけ、「早く避難して」と呼び掛けた。
 午後3時23分ごろに大川小に立ち寄った支所職員佐藤圭一さん(59)と佐藤幸徳さん(57)の広報車3号車も長面方面に向かった。
 津波を見て引き返してきた1号車と大川小から東に約300メートル離れた大川郵便局近くで擦れ違った。1号車側が気づかず、3号車はそのまま沿岸部に向かった。「これ以上行ったら危ない。とりあえず戻れ」。釜谷霊園付近で、長面方面から車で逃げてきた住民に注意され、Uターンした。
 幸徳さんは戻る途中、北上川に並行する富士川の堤防(標高約3メートル)より高い位置にある船を目撃した。上流へと流されていく。圭一さんは「少し高いから」と、北上川右岸の堤防道路(三角地帯、標高6~7メートル)に向けアクセルを踏んだ。「自分が逃げなきゃ、という頭しかなかった」と話す。
 津波襲来までの十数分の間に市の広報車計3台が大川小の前を行き来した。1、2、3号車の順に通過し、同じ順で戻ってきた。拡声器を搭載して使えたのは1号車だけだった。
 釜谷の中心部に入った1号車は、時速を40キロ程度に落とした。「高台という文言を入れて呼び掛けろ」「緊迫感を出して大きく話せ」。山田さんは助手席の菅原さんに指示した。午後3時25~30分ごろのやりとりだった。
 大川小付近に差し掛かると、釜谷地区の男性区長が校門に向かって歩道を走っていた。表情から緊迫感が伝わる。山田さんは運転席から「すぐに逃げるように」と告げた。
 「津波が来ているからすぐに避難してください」。菅原さんの大きな声が、拡声器を通し釜谷地区に繰り返し響いた。

[大川小の津波事故]2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖で起きたマグニチュード(M)9.0の東北地方太平洋沖地震による津波で、石巻市大川小(児童108人)の児童70人が死亡し、4人が今も行方不明。学校にいた教職員11人のうち、男性教務主任を除く10人も犠牲となった。当時校長は休暇で不在。学校は海抜1.1メートルで北上川河口から約3.7キロ離れ、市の津波ハザードマップで浸水予想区域外だった。地震発生から約50分後に第1波が到達し、最高水位は高さ約8.7メートルに達した。学校管理下で戦後最悪の事故とされる。


2018年02月28日水曜日


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