<止まった刻 検証・大川小事故>第4部 緊迫(3)三角地帯行き 教頭ら決断

被災した大川小。児童たちが誘導されたのは、1~2分で行ける裏山ではなく、三角地帯(右奥)だった=石巻市釜谷

 東日本大震災による津波で、宮城県石巻市大川小は児童74人と教職員10人が犠牲となった。学校から約3.7キロ離れた沿岸部を襲った津波の目撃情報は、校庭で待機する教職員らに伝わり、情勢は一挙に緊迫する。第4部は当時の児童や住民らの証言を基に、3月11日午後3時25分ごろから津波襲来までの状況を再現、検証する。(大川小事故取材班)

◎15:25~津波襲来

 津波が石巻市大川小に迫る。3月11日午後2時46分の地震発生から約45分間。当時、現場のトップだった男性教頭=当時(52)=は、校庭からさらに避難するかどうか決めかねていた。
 男性教務主任(56)は少なくとも2度、「山へ逃げますか」と裏山への避難を提案したとされる。1度目は「この揺れの中では駄目だ」と誰かに言われ、2度目は教頭から明確な返事がなかったという。
 校庭の防災無線は午後2時52分と午後3時10分の2回、大津波警報の発令を告げた。ラジオや迎えに来た保護者、消防の広報車による避難の呼び掛けが再三あったが、行動には結びつかなかった。
 「教頭先生は山へ上がらせてくれと言ったが、区長さんはここまで来るはずがないから、三角地帯に行こうと言っていた」。時刻は不明だが、当時5年の男子児童が市教育委員会の聞き取りに答えている。三角地帯は北上川右岸の堤防道路で校庭より5~6メートル高い。

 学校管理下にある子どもの命を誰が守るのか-。学校側は最も重要な判断を、「ここまで津波は来ない」と校庭に身を寄せていた地元住民に委ねた可能性が高い。
 地元釜谷の女性は、学校に隣接する釜谷交流会館前で立ち話をしていた時、校庭周辺に響き渡る大きな声を聞いた。
 「大きな津波が来て校庭では危ないので、三角地帯に避難します」。午後3時30分ごろ、生死を分ける「学校の最終決断」を知らせたのは地元の女性民生委員とみられる。
 女性は普段から教職員に頼られ、読み聞かせ活動などで児童にも身近な存在だった。地震発生後、住民に声を掛け、奔走する姿が多数目撃されている。

 校庭でたき火を用意し、長い待機に備えていた教員らが避難行動を開始したのはなぜか。最終決断のきっかけは不明だが、大川小津波訴訟の仙台地裁判決は、広報車の通過をもって学校側が津波を認識したと判断した。
 市河北総合支所の広報車1号車は遅くとも午後3時30分ごろまでに「松原(松林)を津波が抜けてきた」と拡声器で呼び掛けながら大川小前を通過した。
 1号車は三角地帯に到着後も釜谷地区に向け、繰り返し避難を呼び掛けた。直後に着いた2号車の及川利信さん(64)は「あの(音量)レベルなら学校にはっきり届く」と話す。
 当時、県道や学校脇の市道は車が行き交い、釜谷交流会館には続々と住民が集まってきた。NHKのAMラジオは午後3時32分、「津波予想高10メートル以上」と伝えた。騒然とする周囲の様子が教員らに避難を促した可能性もある。
 教頭は比較的安全に大勢が移動できると考え、三角地帯行きを決めたとみられる。裏山は2003年に斜面の一部が崩れ、工事が実施されていた。大川小出身の男性(20)は「危ないから上がっちゃ駄目だ」と教員に注意された記憶がある。
 ただ、裏山の傾斜が緩いエリアは、児童が毎年、シイタケ栽培の学習でほだ木を持って上っていた。所有者の関係者は「震災前に下草刈りや間伐を実施し、当日は上りやすい状態だった」と話す。
 津波が目前に迫る中、児童たちが向かった先は、防災無線が「絶対に近づかないでください」と繰り返していた堤防だった。


2018年03月02日金曜日


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